「ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン」発売記念インタビュー 第2回「F-ZERO篇」

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みなさん、こんにちは! 京都在住ライターの左尾昭典です。
「ニンテンドークラシックミニ スーパーファミコン」(略して「ミニスーファミ」)の発売を記念してのインタビュー。
第2回のテーマは『F-ZERO』です。

『F-ZERO』といえば、近未来のコースを、時速400キロのスピードで疾走する、激熱のレースゲーム。スーパーファミコンと同時に発売されたタイトルとしても、よく知られていますよね。

発売後は、0.01秒を競うタイムアタックがブームになるなど、一世を風靡した『F-ZERO』ですが、どのような経緯で開発がはじめられることになったのでしょうか。そこで今回は、当時のディレクターの清水一伸さん、メインプログラマーの西田泰也さん、そして第1回の「スターフォックス篇」に続いての登場となる、デザイナーの今村孝矢さんの3人から話を聞いてみることにしました。

それでは、清水さん、西田さん、今村さん、よろしくお願いいたします。

第2回

F-ZERO篇

完全な内作で

清水さんは、初代『F-ZERO』のディレクターを担当していたんですね。

清水

はい。でも、ディレクターだったんですけど、自分で絵を描いたりもしていました。

今村

スーパーファミコンの時代は、いろんな仕事を兼任することが多かったんです。だから、ディレクターであっても、コースを一緒につくったり、マシンも一緒に考えたりしていたんですね。

ちなみに入社何年目だったんですか?

清水

『F-ZERO』の開発にとりかかったのは入社して4年目でした。

メインプログラマーだった西田さんは、入社して何年目だったんですか?

西田

入社3年目だったと思います。

『F-ZERO』をつくる前はどんなことをしていたんですか?

西田

ファミコンにディスクライターというのがありまして・・・。

ディスクシステム(※1)の書き換えサービスの機械ですね。当時はいろんなお店に置かれていましたよね。

※1 ディスクシステム=1986年2月に発売されたファミコンの周辺機器。正式名称は「ファミリーコンピュータ ディスクシステム」。メディアに磁気ディスクを採用し、ディスクライターを使ってソフトを書き換えることができた。

西田

はい。そのサービスデータを変換するためのプログラムを担当していました。

今村

それに、『F-ZERO』の後の話になりますけど、『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』(※2)のタイトルのところも・・・。

※2 『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』=ミニスーファミにも収録されている、アクションアドベンチャーゲーム。1991年11月発売。

西田

そうですね。最初に『ゼルダ』のロゴが表示される前に、ポリゴンのトライフォースがくるくる回りますけど、あのプログラムも担当しました。

あの有名なシーンは、西田さんがつくったんですね。

西田

はい。あの頃から、将来のコア技術になるであろうポリゴンの実験をはじめていて、任天堂として初めてゲームに使ってみたのが、あのシーンだったんですね。

ところで宮本(茂)さんが、ずいぶん昔のインタビューで語っているんですけど、スーパーファミコン以前というのは、プログラムのほとんどは外注していたそうですね。

清水

そうです。

それが、『F-ZERO』の頃から、自前でプログラムができるようになったとか・・・。

西田

当時所属していた情報開発部では、私がその第1号なんです。

西田さんは、情報開発部のプログラマー第1号だったんですね。

清水

ですから、『F-ZERO』は完全に内作なんです。

ちなみに何人で開発したんですか?

西田

プログラマーは僕を入れて3人でした。

清水

あと、背景を描いてくれた人もいて、実質8人でつくりました。

今村

プロデューサーの宮本を入れると9人ですね。

『F-ZERO』は、そんな少人数でつくられたんですね。で、デザイナーの今村さんは、入社何年目だったんですか?

今村

1年目です。僕が入社したときには、『F-ZERO』のプロジェクトがすでに立ち上がっていたんです。

ということは、『F-ZERO』が初仕事だったんですか?

今村

そうなんです。

今村さんが任天堂に入社したのは・・・?

今村

1989年ですから、スーパーファミコンが発売される前年だったんですね。それで、入社後に新人が集められて、宮本から「君たちにはスーパーファミコンをやってもらうから」と言われたときは、すごくうれしかったことを、いまでもはっきり覚えてます。

けちょんけちょんに言われて

そもそも『F-ZERO』をつくることになったのは、何がキッカケだったんですか?

清水

そもそものキッカケは、ファミコンでつくった『ファミコングランプリ F1レース』(※3)です。真上からの視点のレースゲームだったんですけど、その第2弾をつくったので、アメリカに行って、NOA(Nintendo of America)のスタッフに見てもらったんです。すると、けちょんけちょんに言われまして・・・。

※3 『ファミコングランプリ F1レース』=1987年10月に、ファミコン ディスクシステム用ソフトとして発売されたレースゲーム。

せっかくつくったのに評価されなかったんですね。

清水

「こんなのはレースゲームじゃない。レーシングカーはもっとかっこいいもんだ」とか言うんです。あげくに「こんなものは売れない」とまで言われて、僕もカチンときたんです。

それで、清水さんの闘志に火がついたんですね?(笑)

清水

ええ(笑)。「そこまで言うんだったら、かっこいいものをつくってやろうじゃないか」と思いました。で、渡米したときに、たまたま大流行していたのが、映画の『バットマン』(※4)だったんです。

今村

ティム・バートン監督の『バットマン』ですね。ちょうど僕が入社した年に公開されたんです。

※4 『バットマン』=1989年公開のアメリカ映画。主演のバットマンはマイケル・キートン、敵役のジョーカーはジャック・ニコルソンが演じた。

清水

それで、アメリカ滞在中に『バットマン』のコミックなどを山ほど買い込んで、日本に帰ったんです。すると、ちょうどいいタイミングで、西田がレースゲームの実験をしていたんです。

西田さんはどんな実験をしていたんですか?

西田

あの当時、若いプログラマー数人に、それぞれテーマが与えられていて、スーパーファミコンでの機能の実験をやっていたんです。そのなかで私のテーマは、「モード7」(※5)を使ったレースゲームだったんです。

※5 「モード7」=読み方は「モードセブン」。背景の拡大・縮小・回転の機能をサポートするモードのこと。

スーパーファミコンには、描画のためのいろんなモードがあったんですね。

西田

そうです。モード0からモード7までありました。で、モード7は、スーパーファミコンの特徴のひとつでもある、「背景の拡大・縮小・回転」ができる機能があったんですね。

清水

西田はそのモード7を使って、画面の下、5分の4くらいを回転させて、残りの5分の1に遠景を表示させるようなことをしていたんですけど、それを見たとき、「これや!」と思ったんです。

これでかっこいいレースゲームができると思ったんですね。

清水

はい。これを使ってレースゲームをつくれば、みんなビックリすると思いました。

「近未来で行くしかない」

そのとき、今村さんは入社していたんですか?

今村

入社して、すぐのタイミングだったと思います。そのデモを見せてもらって、すごくビックリしたのはよく覚えていますから。

その時点で、F-ZEROマシンのようなものは動いていたんですか?

今村

最初は清水が描いた、でっかいタイヤのクルマが走っていたんです。まるでミニカーのホットウィール(※6)みたいな感じの。

清水

そうそう、ホットウィール。

※6 ホットウィール=アメリカのマテル社のミニカーブランド。1968年の登場以来、数多くのホットウィールが発売されている。

それがなぜ、『F-ZERO』の近未来マシンに変化するんですか?

清水

そこは『バットマン』の近未来の世界が念頭にあったのと、それに加えてタイヤがあると、いろいろと面倒だったんです。

西田

タイヤがあると、それを曲げたくなったりするんですけど、あの当時は技術的に難しかったんです。

今村

そもそもクルマの絵は、僕が1台1台、ドット絵で描いていたんです。しかも、クルマをいろんな角度から見たパターンも描かないといけなかったので、それだけで膨大な数になっていたんですね。

清水

いまだったら、「ポリゴンでつくって、回転させればいいやん」という話になるんですけど、当時はまだポリゴンが使えなかったんですよね。

そこで、タイヤが動くようにしようとすると、ドット絵の枚数がもっと増えるということなんですね。

清水

いきなり増えるんです。けど、「タイヤをなくしてしまえば、絵を描かなくてもええやん」という話になりまして(笑)。

今村

そこで、タイヤを取っぱらって、クルマを宙に浮かせればいいと(笑)。

清水

なにしろ近未来の世界ですからね(笑)。

あははは(笑)。

清水

で、近未来の世界にしたのは、ほかにも理由があって、たとえば建物も立体で描くことができなかったんです。それで、コースを空中に浮かせて、すごく下のほうに街があることにすれば、建物の影とかも描く必要がなくなるし、というので、「近未来で行くしかない」という感じになったんですね。

今村

そうでしたね。

西田

それにコースのカーブも、いろいろな角度のカーブ(緩いカーブ、急なカーブなど)の絵を用意しなければならなくて、でも、端っこに丸いものを並べたらいけるんじゃないかというので・・・。

清水

そこで丸いのを並べて、ガードビームと呼ぶことにしたんですよね。

名前を聞くとかっこいいですけど、苦肉の策で生まれた表現だったんですね(笑)。

西田

そうなんです。丸だったら、どこから見ても丸ですからね(笑)。

清水

しかも、少ないパーツで表現できるというメリットもあったんです。

近未来の世界という設定にすることで、いろんなパズルがうまくはまっていったんですね。

清水

そうですね。

見えない壁を取っ払うことで

『F-ZERO』のマシンは、時速400キロで走ってるんですよね。

清水

そういうイメージでつくりました。

そのスピード感もさることながら、実際に遊んでおもしろかったのがショートカットで、大ジャンプをして、こんな近道もできるんだ、という驚きがありました。そのような遊びかたは、最初から想定していたんですか?

清水

想定していたものもありましたけど・・・。

今村

実は開発の途中までは、空中に見えない壁があったんです。

ということは、大ジャンプはできなかったんですか?

今村

そうなんです。コースアウトもできないようになっていたんですね。

清水

ああ、ありましたねえ、見えない壁が・・・。

今村

思い出しました? 僕がどうして、それを覚えてるかというと、壁があるときは、いまいち物足りないなあと思っていたんです。ところが、見えない壁を取っ払ってからは、「すごいぞ、このゲーム」と感じはじめた記憶があるんです。

見えない壁をなくすことで、ジャンプ台をつくり、ショートカットができるようになったんですね。

今村

そうです。コースを細かくチェックしながら、ショートカットをしていいポイントを、自分たちで決めていったんです。

さらに、コースアウトしてしまうと・・・。

清水

爆発させようと(笑)。しかも、できるだけ派手に爆発させたかったので、できるだけでかい音を出すようにしました。

だから、見えない壁をなくすことで、遊びの幅が大きく拡がった、ということなんですね。

今村

宮本の提案で、壁を取っ払ったんですけど、その結果、『F-ZERO』が化けた、というのが、僕の印象なんですね。

西田さんは、開発当時のことで覚えていることはありますか?

西田

ロケットスタートです。

ロケットスタートというのは、スタート前にわざとクルマを前に出し、後続車にぶつけさせて、速く進むというテクニックですよね。

西田

そうです。あれはもともとペナルティからはじまったんですけど、裏技のように使われるようになりまして・・・。

清水

そもそもあれは失敗スタートなんですよね。

どうしてそういう仕様を入れることになったんですか?

西田

『ファミコングランプリ F1レース』のときは、スタート前にアクセルボタンを押すと、タイヤが空回りして、前に進めなかったんですね。そこで、「それと同じペナルティを入れてくれ」という指示を受けたんですけど、「『F-ZERO』のマシンにはタイヤが付いてないですよね?」って(笑)。

あははは(笑)。タイヤがないから空転させようがないんですね。

西田

そこで、エンジンがオーバーヒートしたことにして、スタート前にアクセルボタンを押すと、エンジンがボーンと爆発して、出力もひゅーんと落ちて、あとはライバルたちに抜かされていく・・・というつもりでつくったんです。

清水

ところが、後続のクルマが後ろを押してくれて・・・。

一気にトップに躍り出ることができたんですよね(笑)。

清水

でも、それを見て、「これって、ありやな」と思ったんです。

そういうことが起こることは、発売前にわかっていたんですね。

清水

そうです。そういうロケットスタートがあったほうが、より楽しんでいただけると思ったんですね。

スーファミのイメージキャラクター?

話は変わって、キャラクターについてもお聞きしますけど、ゲーム中には登場しないキャプテン・ファルコンたちが、どうして誕生することになったんですか?

今村

実は、『F-ZERO』が完成してから、いろいろと考えはじめた記憶があるんです。

ゲームの開発中は、キャラクターのことは一切考えていなかったんですね。

今村

そうなんです。しかも、もともとはスーパーファミコンのイメージキャラクターだったんですよ、キャプテン・ファルコンは・・・。

・・・・・・えっ!?

清水

いまの発言はちょっと戸惑ってしまいますね(笑)。

ええ(笑)。キャプテン・ファルコンがスーパーファミコンのイメージキャラクターだったなんて、聞いたことがありませんから・・・。

今村

これ、社内でもほとんどの人が知らない話で・・・。『F-ZERO』の開発がほぼ終わってから、僕がいろんなイラストを描いていたら、ある人から「スーパーファミコン用にイメージキャラクターをつくりたいな。たとえば“キャプテンなんちゃら”とかどうかな?」って言われたんです。

“キャプテンなんちゃら”(笑)。

今村

そこで、スーパーファミコンのコントローラのボタンの色に合わせて、赤とか青とか黄色を入れたキャラクターはどうかな、ということで考えはじめたのが、そもそものはじまりなんです。

そのスーパーファミコンの“キャプテンなんちゃら”が、どうして『F-ZERO』のキャプテン・ファルコンになるんですか?

今村

そこは・・・よく覚えてないんですよね。

西田

実はこういう資料を持ってきたんです。清水が書いた仕様書なんですけど・・・。

すごく分厚いですけど、これ全部、『F-ZERO』の資料なんですか?

西田

そうです。『F-ZERO』だけです。プログラマーなので、私のところにすべての資料が集まってきていたんですね。

(ファイルをめくって)コース図もあるじゃないですか!

清水

すげえ!

清水さんもビックリ(笑)。何年ぶりの対面ですか?

清水

25年ぶりくらいです(笑)。あ、おれの日付印や。1年ということは、平成元年・・・。

西田

西暦で言うと1989年ですね。

今村

9月6日ですから、僕は入社5か月くらいです。

西田

で、今村が描いたキャプテン・ファルコンのイラストがこれなんです。

左から2番目ですね・・・ちょっとイメージが違いますね、葉巻もくわえてますし・・・。

今村

すごく初期に描いた絵ですね。で、実は僕も、別の資料を持ってきてるんです。

これって、『F-ZERO』の取扱説明書に載っていたコミックですね。

今村

そうです。それの下書きなんです。もともとは、“キャプテンなんちゃら”からはじまったんですけど、『F-ZERO』のパッケージをどうしようか、という話になって、試しにアメコミ風に描いてみたりしたんですね。

清水

それをNOAのスタッフに見せたら、評判がすごくよかったんです。そこで、コミックを取扱説明書に載せようとか、いろんな話がバンバン進んでいったんです。

つまり、はじめはスーパーファミコン用に描かれたキャラクターが、いつの間にか『F-ZERO』専属キャラになっていた、ということなんですね。

今村

たぶんそうだったと思います。

清水

で、このコミックには、ゲーム中では説明できなかった世界観が盛り込まれていて、しかも「スタート」という勢いがあるところで終わるのが、すごくいいなあと思いました。

今村

入社1年目としては、僕、なかなかいい仕事をしてるでしょう(笑)。

一同

(笑)

「これはポリゴンですかっ!?」

ところで、開発がスタートして、完成するまでに、どれくらいの期間がかかったんですか?

清水

1年半・・・くらい?

西田

1年半くらいでしたね。

で、スーパーファミコンと同時に発売されることになるわけですけど、どんな手ごたえを感じましたか?

清水

当時は問屋さんがやっている初心会(※7)というのがありまして・・・。

※7 初心会=任天堂の一次問屋が中心になって組織された団体で、任天堂商品の流通を担ったほか、ゲーム展示会も主催していた。1997年に解散。

かつては初心会が主催する展示会が、毎年のように開かれていましたよね。

清水

その展示会で、スーパーファミコンの発売前に、『F-ZERO』を初出展したんです。同じくローンチの『スーパーマリオワールド』が10台くらいで、『F-ZERO』は2台くらい出したんですね。

2台って、ちょっと少ないですね。

清水

当時のイベントはそんなもんだったと思います。で、その試遊台にものすごい行列ができて、僕は説明員をしていたんですけど、あるゲームメーカーの若手社員が、興奮しながら近寄ってきて、「これはポリゴンですかっ!?」って(笑)。

西田

僕も同じこと、聞かれました(笑)。もちろん「いいえ、違いますよ」と答えましたけど。

スーパーファミコン発売前に『F-ZERO』を見た人は、すごい進化を感じた、ということなんでしょうね。

清水

そうですね。あの手のものはゲームセンターにもなかったと思いますし・・・。

ですから、発売前から、すごく手ごたえを感じていたんですね。

清水

はい。「これはいけるぞ」と思っていました。

で、実際に発売されると、タイムアタックがすごく流行りましたよね。

清水

そうなんです。とくにミュートシティのタイムアタックが・・・。

0.01秒のタイムを競うようなことをしていたんですよね。

清水

たとえば、丸いガードビームと、ダートの間にわずかな隙間があるんですけど、それを通り抜ける猛者がいたんですね。そういうことは理論上はできるとは思っていたんですけど、スタッフの誰ひとりとして試したことがなかったんです。

今村

僕らはもともと、ダートはブーストで抜けるもんだと思っていたので、あれは神業のように感じましたね(笑)。

清水

でもそのおかげで、タイムアタックがすごく流行ったのはいいんですけど、みんなミュートシティばっかり走るようになってしまって・・・。本当はいろんなコースを走ってほしかったんですけどね(笑)。

ですよね(笑)。

今村

でも、数年前に、ミュートシティのタイムが更新されたらしいですね。十数年ぶりに新記録が出たということで話題になっていたと思うんですけど・・・。

今回のミニスーファミの発売をキッカケに、また記録を更新する人が出てくるかもしれませんね。

今村

かもしれませんね。というか、大いに期待したいですよね。

(第3回は『スーパーメトロイド』です。お楽しみに)

© 1990 Nintendo

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