「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ」発売記念インタビュー 第3回「スーパーマリオブラザーズ篇」

  • この記事をシェアする

みなさん、ファミコンニチハ! 京都在住ライターの左尾昭典です。
「ニンテンドークラシックミニ ファミリーコンピュータ」の発売を記念してお届けするゲーム開発者インタビューも、第3回に突入です。さて、
今回のテーマは、ファミコンを代表するタイトルの『スーパーマリオブラザーズ』です。

ご存じのとおり、『スーパーマリオ』は世界中で大ヒットし、空前のブームを巻き起こしたわけですが、このゲームの開発裏話については、いままでいっぱい語られているんですよね。たとえば、社長が訊く『New スーパーマリオブラザーズ Wii』のその1その2とか、社長が訊く「スーパーマリオ25周年」の「スーパーマリオ生みの親篇」などなど・・・(おもしろいインタビューですので、未読の方はぜひお読みください!)。

そこで今回は、初代『スーパーマリオ』だけでなく、その3年後に発売された『スーパーマリオ3』についても話を聞くことになりました。しかも、「ドンキーコング篇」で登場した宮本茂さんはもちろん、デザイナーの手塚卓志さんとサウンドの近藤浩治さんも登場。『スーパーマリオ3』では開発に苦労したという話も聞けますので、最後までおつきあいください。

それでは、宮本さん、手塚さん、近藤さん、よろしくお願いいたします。

第3回

スーパーマリオブラザーズ篇

「ファミコンカセットの集大成」に

 手塚さんと近藤さんは、同じ年に任天堂に入社して、そのときはすでにファミコンが発売されていたんですよね。

手塚

出てました。僕らが入社する前年(1983年)にファミコンが発売されたんです。

ちなみに手塚さんは、ファミコンを持っていたんですか?

手塚

持ってません(キッパリ)。

(笑)

手塚

任天堂に入ってから買いましたけど。

近藤さんは?

近藤

僕も持っていなかったです。僕、アーケードゲームはよく遊んでいたんですけど、入社したときに流行っていたのが『ドンキーコング3』(※1)だったので、それを一生懸命に遊んでいました。

※1 『ドンキーコング3』=1983年にアーケードで登場したシューティングゲーム。翌年の7月にファミコン版も発売。

当時のファミコンに対しては、どんな印象を持っていましたか?

近藤

アーケードゲームが家庭で遊べるのがいいなと思いました。

手塚

僕は、ファミリーコンピュータの知識がまったくなくって、本当にコンピュータだと思ってたんです(笑)。

あははは(笑)。発売当時は、そんな勘違いをする人も少なくなかったんでしょうね。

手塚

そうですね。それくらい何の知識もなかった自分が、まさかファミコンのゲーム開発にたずさわることになるとは思ってもいませんでした。

さて、今回のテーマは『スーパーマリオブラザーズ』なんですが、宮本さんはこのゲームをどういう意気ごみでつくったんでしょうか。

宮本

自分としては、「ファミコンカセットの集大成」をつくりたいと思っていました。

世界的に大ヒットすることになる、このゲームが出るまでに、ファミコン発売から2年待たなければいけませんでしたけど、手塚さんと近藤さんが参加したことがやっぱり大きかったわけですよね?

宮本

そうです。デザイナーの仕事は僕ひとりでやっていましたので、手塚が入ってきてすごく助かりました。それでまず一緒につくったのが『デビルワールド』(※2)だったんです。

※2 『デビルワールド』=1984年10月に、ファミコン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。

近藤さんのサウンドのデビュー作も『デビルワールド』だったんですよね。

近藤

そうなんです。

宮本

そのあと、今回の「クラシックミニ」にも収録されている『エキサイトバイク』(※3)をつくって、そのときも手塚にちょっと手伝ってもらったりしました。

※3 『エキサイトバイク』=1984年11月に、ファミコン用ソフトとして発売されたレースゲーム。

『デビルワールド』では、2倍のサイズのキャラクターを動かすことができ、『エキサイトバイク』では、画面のスクロールやワープが実現できて、それらで蓄積された技術が、『スーパーマリオ』の開発に活かされることになるんですよね。

宮本

そうです。いろんな技術をパズルのように、ファミコンのカセットのなかに詰め込もうと。そこで、大きなキャラクターを動かして、スクロールする長いコースをつくることになったんです。

翌年にはディスクシステム(※4)の発売が控えていましたよね。

※4 ディスクシステム=ファミリーコンピュータ ディスクシステム。1986年2月に発売された、ファミコンの周辺機器。ディスクメディアを採用することにより、ROMカセットよりもメモリー容量が増え、ゲームデータのセーブが可能になった。

宮本

だからこそ、『スーパーマリオ』を「ファミコンカセットの集大成」にしようということなんですね。ファミコン発売から時間がたち、ゲームづくりのためのいろんなノウハウがたまっていましたので、それが実現可能なタイミングでもあったんだと思います。

大きいマリオからちっちゃいマリオへ

手塚さんは『スーパーマリオ』をつくることになったとき、宮本さんからどんな構想を聞いたんですか?

手塚

僕が聞いたのは、大きいキャラクターが、けっこう広いコースを跳んだりはねたりする、そういう遊びがつくりたいということでした。

だから最初は、大きなマリオだけを動かしていたんですね。

手塚

そうです。

けっこう昔の話になりますが、マンガ雑誌で『スーパーマリオ』の開発物語が掲載されたことがありましたよね。

宮本

はいはい(笑)。

そのマンガには、大きなマリオを画面に出したときに、バグで上半身しか表示されないことがあって、それを見た宮本さんが、ちっちゃいマリオを出すアイデアを思いついた、というエピソードが描かれていたのですが・・・。

宮本

それは違います(キッパリ)。

(笑)

宮本

これははっきり覚えています。そのとき、僕と手塚と中郷(俊彦)さん(※5)の3人で会議をしていたんですけど、ホワイトボードに全部のコースの長さを描いて、「もっと先が見えへんかな」とか話していたんです。

※5 中郷俊彦さん=株式会社SRDの代表取締役社長。SRDはゲームソフトのプログラムの受託開発や、CADパッケージの開発・販売などを行う会社で、長年、『マリオ』や『ゼルダ』シリーズの開発に携わってきた。

マリオが大きいので、コースの先が見えないと?

宮本

そうです。そこで、画面をもっとうしろに引いたら、コースの先が見えるようになるんですけど、すると「マリオがちっちゃくなるよね」と。で、そのときに中郷さんが言ったんです。「ちょっと待てよ・・・。ちっちゃなマリオを出すのもおもしろいんやないか」と。

なるほど。つまり、コースの先を見やすくするために、ちっちゃなマリオを出すことになったんですね。

宮本

そうなんです。しかも、ちっちゃいマリオが敵に当たると、それでおしまいになってしまうんですけど、大きいマリオが敵に当たっても、ちっちゃくなるだけで大丈夫なようにしようと。それって新しい仕組みになるし、そういうことが、そのホワイトボードの会議で一気に決まっていったんです。

マンガで描かれていたように、バグが原因ではなかったんですね(笑)。

宮本

そうです(笑)。

ところで、ゲームの最初から大きいマリオを登場させようとは考えなかったんですか?

宮本

最初から大きいものを触るより、まずちっちゃいものを触って、そのあとに大きくなったほうがうれしいですし、そのほうが手ごたえがいいんです。(手塚さんに)そういうことはすぐに決まっていったよね。

手塚

そうでしたね。

宮本

で、ちっちゃいマリオが大きくなるので、『スーパーマリオ』という名前にしたというわけなんです。

俯瞰(ふかん)視点の絵からはじまって

『スーパーマリオ』の開発ストーリーについては、任天堂ホームページの「社長が訊く」で詳しく語られていますので、『スーパーマリオ3』についてお聞きしようと思います。

宮本

はい。

『スーパーマリオ3』は、『スーパーマリオ』から3年後の1988年に発売されましたけど、どういう経緯で『3』をつくることになったのですか?

宮本

その前に出た『スーパーマリオ2』(※6)が、手塚のディレクターデビュー作だったんです。で、それがうまくいったので、今度は本格的に新作をつくろうという話になりました。

※6 『スーパーマリオ2』=1986年6月に、ファミコン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。『スーパーマリオ』のリメイク版で、上級者向けに開発された。

手塚さん、『3』のディレクターをすることになってプレッシャーはありませんでしたか? なにしろ初代『スーパーマリオ』は、あれほどの大ヒットを記録したわけですから。

手塚

初代のプレッシャーというよりは、「ちゃんとつくらなきゃ」みたいな・・・。というのも、うまくまとめることができなかったんです、わりと長いこと・・・。

宮本

中郷さんには怒られるしね(笑)。

手塚

怒られるし(笑)。

どんなところがうまくまとめられなかったんですか?

手塚

最初は真横から見た絵ではなくって、俯瞰視点の絵をつくっていたんです。

『スーパーマリオ』のように真横からではなく、斜め上から見下ろすような画面だったんですね。

手塚

そうです。だけど、うまくできなかったんです。

宮本

「ちょっと上から見せたいんです」と言うんです。けど、もともと『スーパーマリオ』というゲームは、自分が地面に乗ったか、乗らないかを、ギリギリで極めるゲームなんです。なのに、ちょっと斜め上の視点にすると、地面との距離感がつかみにくくなってしまうんです。だから、手塚には「絶対に苦労するよ」って言ったんです。

手塚

・・・はい(苦笑)。なので、途中で真横の視点にしたんですけど、実は製品版には、俯瞰視点でつくっていたときの名残が・・・。

宮本

残ってますよね。

たとえば、白と黒のチェック柄の床とかも、そんな感じですよね。

手塚

そうです。

そもそも手塚さんは、どのような考えで『3』をつくろうとしたんですか?

手塚

『2』は、初代『スーパーマリオ』の難易度やステージ構成を変えてつくりましたけど、同じ手はもう使えませんし、全体を変えようと思ったんです。見えかたも含めて。

それで、俯瞰視点にチャレンジしたり、キャラクターには黒ふちを付けて描いたりしたんですね。

手塚

そうです。

宮本

マリオの顔もずいぶん変わりましたよね。目が帽子から1ドット離れたので、かわいらしい感じになりましたし。

手塚

初代のマリオは、目と帽子がくっついていましたから、そういう見た目も変えようと思ったんです。

2、30人の人海戦術で仕上げる

アクションも多彩になりましたよね。

手塚

はい。しっぽマリオって、無理矢理な感じもするんですけど、これもすごく悩んだんです。そもそもマリオにタヌキっていいのかな、とか・・・。

どうしてタヌキのしっぽだったんですか?

手塚

ボタンを押すとマリオがくるっと回って、しっぽで敵を蹴散らす、という新しいアクションを入れたかったんです。

最初は空を飛ぶのではなく、敵を蹴散らすためにしっぽをつけて、それでタヌキなんですか?

手塚

そうなんです。俯瞰視点から真横からの絵に戻したときに、うまく操作できなくなって調整に苦労したんですが・・・。空を飛ぶのは、初代からやりたかったアイデアとしてあったので、しっぽマリオは両方できるようになりました。

宮本

なので、しっぽマリオはわりと早い時期からあって、それにカエルマリオとか・・・。

ブーツマリオも出ますよね。

手塚

なんか、いろんなことをバラバラに実験をやっていたのを、最後になって・・・。

宮本

「どうまとめようか」という話になって、僕も入っていっしょに調整していきました。

じゃあ、開発期間はけっこう長かったんですね。

手塚

けっこう、というか、かなり長かったです。

宮本

『スーパーマリオ2』が終わってからですから、1986年の春からはじめて、次の年・・・にはまだできていなくって、その次の年の春から仕上げに入って・・・。

手塚

なんか、そういう感じでした。

宮本

だから2年くらいは・・・いや、もっとです。1988年の春に発売しようとしていたんですけど、それでもできなくて、そこから半年延ばしたんです(笑)。(手塚さんに)ねっ!

手塚

・・・(黙ってうなずく)

つまり、2年半かかったんですね。そこまで混乱したのは、どうしてだったんですか?

手塚

やっぱりいろんなことを詰め込みたかったんです。で、「こんなことをしたい」と言いながらも、仕様上の穴がすごくいっぱいあったんです。

ちなみに初代のときは何人でつくったんですか?

宮本

7、8人くらいだったと思います。

『3』ではどうだったんですか?

手塚

だいぶ増えました。

宮本

2、30人?

手塚

はい、それくらいだったと思います。

宮本

マップ部屋というのがあって、細長い会議室にプログラマーがずらーっと並んで、紙を見ながら、マップのデータを打ち込むようなことを、毎日していたんですよね。

手塚

はい。

宮本

だから最後は、人海戦術でつくっていたんです。

近藤

でもサウンドは・・・僕ひとりでしたよ。

一同

(笑)

近藤さん、たったひとりでやっていて、曲づくりはスムーズに進んだのですか?

近藤

いえ、テーマ音楽の「地上のBGM」にけっこう苦労しまして・・・。

そうなんですか?

近藤

初代の『スーパーマリオ』から、どういうふうに変えたらいいのかって・・・。

ああ、そういう悩みは当然あるでしょうね。

近藤

もともと初代の『スーパーマリオ』の曲をつくったときは、ジャンルにこだわらずに、ゲームを実際に触りながら、それに合うような曲をつくったんです。ところが、たくさんの人に聴かれるなかで、「ラテンぽいね」とか「フュージョンぽいね」とか言われるようになって、「じゃあ『スーパーマリオ3』は何でいこうかな」みたいな・・・。

まず、ジャンルから考えるようになったんですね。

近藤

ええ。みんなから「レゲエだろう?」とか言われたりしましたし(笑)。そのように、ジャンルから曲をつくるという発想から入ったために、いろんな悩みが生まれて・・・。

迷いが生じてしまったんですね。

近藤

なので、「地上のBGM」は2曲つくったんです。それで完成する直前に、この2人にその2曲を聴いてもらって、どっちにしようか、という相談をしたくらいなんですね。なので、けっこう苦労しましたね、『スーパーマリオ3』の曲づくりは。

セーブを奔放(ほんぽう)に使ってほしい

さて、今回の「クラシックミニ」では、初代の『スーパーマリオ』と、最後は人海戦術でつくられた『3』が遊べるようになっていますけど、近藤さんはどんなところを楽しんでほしいですか?

近藤

同じファミコンでも、これだけ音が違う、ということがわかっていただけると思いますので、ぜひ聴き比べてほしいですね。

具体的にはどんなところを聴き比べてほしいですか?

近藤

もともとファミコンには、特別なサンプル音源があったのですが、たくさんのメモリーを必要とするので使えなかったんです。ところが『スーパーマリオ3』を開発する頃には、カセットが進化して、容量も増えましたので、その音源が使えるようになったんですね。そこで、パーカッションとかティンパニーの音も使えるようになりまして、初代に比べると、豪華に聞こえるような音楽になったと思っています。

今回は同じ「クラシックミニ」に入っているので、簡単に聴き比べられますね。

近藤

そうですね。

手塚さんはどのように楽しんでほしいですか?

手塚

昔遊んでいた人たちには、懐かしがりながら遊んでほしいと思います。とくに『スーパーマリオ3』は、たくさんのコースを入れたんですけど、コースがたくさんあると、クリアしたら「はい、次」みたいな遊びかたになると思うんですね。

遊び急いでしまうんですよね。

手塚

けど、ひとつのコースだけでも、いろんな要素を詰め込みましたし、じっくりと同じコースを何度も楽しむようなこともしてほしいな、と思っています。

せっかく長期間、苦労してつくったわけですからね(笑)。

手塚

ええ(笑)。敵を全部やっつけてみようとか、それぞれで工夫して遊べるようなつくりになっていますので、たっぷり楽しんでほしいですね。

では最後に、宮本さん、お願いします。

宮本

『スーパーマリオ3』はセーブができないことが、当時遊んだみなさんのストレスになっていて、なかには「ファミコンの電源を切らないで遊びました」という人もいたくらいで(笑)。

いましたよね(笑)。

宮本

けど今度は、セーブが4つもできるんです。しかも30本のゲームそれぞれで4つ。

好きな場面でセーブをすることもできますしね。

宮本

なので、セーブを奔放に使って、あのときのストレスを発散させてほしいと思っています。

10年超の歴史が詰まっている

それにしても、ファミコンはとても息の長いハードになりましたよね。今回の「クラシックミニ」に収録されているタイトルで、ファミコンと同時発売の『ドンキーコング』が1983年で、いちばん遅く出た『星のカービィ 夢の泉の物語』(※7)は1993年発売ですから、なんと10年超の歴史が詰まっているんですよね。

※7 『星のカービィ 夢の泉の物語』=1993年3月に、ファミコン用ソフトとして発売されたアクションゲーム。

宮本

そうですね。

そのように、ファミコンが10年超も活躍できたのは、どうしてなんだと思いますか?

宮本

それは、先ほど近藤も言ったように、カセットが進化したことが、とても大きいと思いますね。

ファミコン本体は同じでも、カセットが進化することで、新しい遊びを生み出すことができたんですね。

宮本

そうですね。それから、おもしろい人がどんどん出てきて、新しいことをやり続けたことも大きいと思いますね。

糸井重里さん(※8)のように、もともとゲーム業界にはいなかった人までがゲームをつくるようになりましたしね。

※8 糸井重里さん=コピーライターやエッセイストなど、多分野で活躍する一方、『MOTHER』や『糸井重里のバス釣りNo.1』などのゲームを開発。現在は「ほぼ日刊イトイ新聞」を主宰。

宮本

そうなんです。

そもそも初代の『スーパーマリオ』は、ディスクシステムの発売を前に、カセット最後のタイトルのつもりでつくったはずなのに、あれほどたくさん売れて・・・。

宮本

あれからファミコン本体が売れましたからね。それに、アメリカでNES(※9)を発売したのは、日本で『スーパーマリオ』が出たあとでしたしね。

※9 NES=Nintendo Entertainment Systemの略。ファミコンの海外版の名称。アメリカでは1985年10月18日発売。

アメリカは、日本より2年遅れての発売だったんですよね。だから、『スーパーマリオ』をつくった当時は、「ファミコンカセットの集大成」という意識が強かったと思うんですけど、じつはそこからはじまった、とも言えるんですよね。

宮本

そうですね。僕も自身も、『スーパーマリオ』のあと、いろんな人に出会えたり、いろんな経験をすることができて、最近もAppleさんの発表会(※10)のステージに立って、みなさんに喜んでもらえましたし(笑)。それってやっぱり、マリオというお兄ちゃんのおかげなんですよね。

※10 Appleさんの発表会=2016年9月に、サンフランシスコで開催されたAppleの新製品発表会。ステージに登場した宮本は、2016年12月に配信予定の『スーパーマリオラン』の発表を行った。

(第4回は『ゼルダの伝説』です。お楽しみに)

この記事のほかにも、こんな記事があります。